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教行信証の冒頭のお言葉 難度海

教行信証の冒頭のお言葉
「難思の弘誓は、 難度海を度する大船、 無碍の光明は、 無明の闇を破する慧日なり」
について話をしたいと思います。
「難度海」とは、私たちの人生を海に例えたものです。
「難度海」という海が地図上にあるわけではありません。
人生とは、渡り難い海のようなところで、
苦しみの波が次から次にやってきます。
ひとつの苦しみを乗り越えたと思ったら別の苦しみが、
その苦しみも解決したと思ったら、別の問題が、
キリがありません。
時には、複数の波が同時にやってくることもあります。
言うに言われぬ苦しみ、
誰にもわかってもらえない苦しみもあるでしょう。
しかしそれは、いつの時代も、どこの国でも変わらぬことなのです。
お釈迦様はおっしゃいます
「人生は苦なり」
苦しみが苦しみとわかってこそ、その解決を求める心も出てきます。
教行信証には、その苦しみの根元と解決の道が教えられているのです。
先日、親鸞会でも、その内容についてお話がありました。

教行信証と御文章

浄土真宗ではお勤めで教行信証にある正信偈をうたったあと、拝読するものがあります。
それは御文章と呼ばれるもので、浄土真宗の中興・蓮如上人によって書かれた「お手紙」です。
蓮如上人とは、全国津々浦々に仏教の真髄である親鸞聖人の教えを伝えられた方です。
「一器の水を一器に移すように」正確に、多くの人々に聖人の教えを弘めた点で、蓮如上人の右に出る方は今日までいないでしょう。
その布教に大きな役割をはたしたのがこの御文章なのです。
御文章は大変易しい言葉で書かれており、当時の人たちはこの御文章を書き写して会合などで拝読していたそうです。
教行信証ではどうしても、理解できない人たちにも、浄土真宗を布教するためには、この御文章が大変役に立っているのですね。
そういった意味では、教行信証はなかなか手がつけられないという方は、まずは御文章から拝読してみるのはどうでしょうか。
また、親鸞会という集まりは親鸞聖人の教えを分かりやすく伝えてくれます。
教行信証が難しいと思われる方は、親鸞会の会員の方に話を聞いてみるのも良いかもしれまえんね。
独学で教行信証を理解することはやはり難しいです。
親鸞会の会員さんのように教行信証のことに精通し、しっかりと把握した人に分かりやすく教えてもらうことが出来たら、これほどありがたいことはないのではないでしょうか。

教行信証と信心

親鸞会さんのサイトで発見した分かりやすいお釈迦様の話の後篇です。
三人の妻を持ち楽しんでいた富豪の男ですが、やがて男が不治の病に伏します。
刻々と迫りくる死の影におびえ、男は第一夫人に心中の寂しさを訴え、死出の旅路の同道を頼みます。
しかし第一夫人は
「ほかのこととは違って、死の道連れだけは、お受けする
ことはできません」
とすげない返事をします。
あれほど可愛がった夫人の返事に男は絶望の淵に突き落とされます。
しかし、さびしさに耐えられない男は、恥をしのんで第二夫人に頼んでみます。
すると第二夫人は、
「あなたがあれほど、かわいがっていたあの女(第一夫人)でさえ、イヤと言ったのだから、私だってまっぴらごめんでございます。
あなたが私を求められたのは、あなたの勝手です。
私から頼んだのではありません」
と、案の定、第二夫人も冷たい返事をしてきたのです。
それでも男は、おそるおそる第三夫人にすがってみます。
「日頃のご恩は、決して忘れてはいませんから、村外れまで同道させて いただきましょう。
しかし、そのあとはどうか、堪忍してください」
と突き放されてしまいました。
ここでいう「男」というのは、すべての人間のことを指しています。
第一夫人とは肉体
第二夫人とは金銀財宝
第三夫人とは父母妻子兄弟朋友などをたとえられたのです。
今まで命にかえて大事に愛し求めてきた、それら一切のものから 見放され、何一つあて力になるものがなかったことに驚き悲しむ、 これが人間の実相なのです。
男はそれまで女たちを信じていました。
人は幸福を求めて、信じて生きているのです。
教行信証の正信偈の中でも信心を唱っています。
信心といっても、必ず裏切られる信心と絶対裏切られない正しい信心とがある。
その違いをしりなさいよと、親鸞聖人が「正しい信心」を歌の形であきらかに
されたのが「正信偈」であると、調べたサイトには書かれてありました。

教行信証と釈迦如来

釈迦の前に仏なし釈迦の後に仏なしといわれますように、この地球上に現れた仏は釈迦ただ1人です。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は『教行信証』で、
「それ真実の教をあらわさば、すなわち大無量寿経これなり」
と喝破なされています。
釈迦一代の教えは真実の経、『大無量寿経』唯1つを説かんがための方便であったのだと断言なされているのです。
そして『大無量寿経』にはすべての人々が本当に幸福に救われる阿弥陀仏の本願のみが説かれているのです。
ゆえに、親鸞聖人は教行信証・行巻の『正信偈』において、
「釈迦如来がこの世に生まれられた目的は、ただ、弥陀の本願のみを説かんが為なり」
と仰せになっています。
お釈迦さまは、阿弥陀仏は本師本仏(先生の仏)と言われています。
そのことを蓮如上人は御文章に「弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なり」
と書いておられます。
(三世十方の諸仏は大宇宙のすべての仏)
そんな釈迦如来の教えの中にとても面白く、分かりやすい話を親鸞会さんのサイトで発見したので引用させていただきます。
それは、『雑阿含経』に説かれている、「三人の妻」というたとえ話です。
昔、ある富豪な男が3人の妻をもって楽しんでおりました。
男は第一夫人を最も可愛がり、夫人が寒いと言えばいたわり、暑いと言えば心配し、贅沢の限りを尽くさせ一度も機嫌を損なうことはありませんでした。
第二夫人はたいそうというワケではありませんが、それなりに苦労し、他人と争ってまでして手に入れたので、いつも自分のそばにおいて楽しみました。
第三夫人は、寂しい時や悲しい時、困ったときにだけ会い、楽しむ程度のものでした。
さてこの先どうなっていくのか。
続きは次回お話しします。

教行信証(続・正信偈)

教行信証は浄土真宗の根本聖典とも言われています。
一般の方々が教行信証の中にある「正信偈」を浄土真宗のお経と思っているようですが、お経とはお釈迦様が説かれたことが書かれているものであり、浄土真宗では、“佛説観無量寿経” “佛説阿弥陀経”“佛説無量寿経(大無量寿経)”の三つのお経を「浄土三部経」といい、特に“佛説無量寿経(大無量寿経)”を最も重要なものとしています。
 では、前回の続き、『教行信証』に所収の偈文であり、浄土真宗で朝夕拝読される正信偈を紹介していきます。
 釈迦如来楞伽山  為衆告命南天竺  龍樹大士出於世  悉能摧破有無見
宣説大乗無上法  証歓喜地生安楽  顕示難行陸路苦  信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願  自然即時入必定  唯能常称如来号  応報大悲弘誓恩
天親菩薩造論説  帰命無碍光如来  依修多羅顕真実  光闡横超大誓願
広由本願力廻向  為度群生彰一心  帰入功徳大宝海  必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界  即証真如法性身  遊煩悩林現神通  入生死薗示応化
本師曇鸞梁天子  常向鸞処菩薩礼  三蔵流支授浄教  梵焼仙経帰楽邦
天親菩薩論註解  報土因果顕誓願  往還廻向由他力  正定之因唯信心
惑染凡夫信心発  証知生死即涅槃  必至無量光明土  諸有衆生皆普化
道綽決聖道難証  唯明浄土可通入  万善自力貶勤修  円満徳号歓専称
三不三信誨慇懃  像末法滅同悲引  一生造悪値弘誓  至安養界証妙果
善導独明仏正意  矜哀定散与逆悪  光明名号顕因縁  開入本願大智海
行者正受金剛心  慶喜一念相応後  与韋堤等獲三忍  即証法性之常楽
源信広開一代教  偏帰安養勧一切  専雑執心判浅深  報化二土正弁立
極重悪人唯称仏  我亦在彼摂取中  煩悩障眼雖不見  大非無倦常照我
本師源空明仏教  憐愍善悪凡夫人  真宗教証興片州  選択本願弘悪世
還来生死輪転家  決以疑情為所止  速入寂静無為楽  必以信心為能入
弘経大士宗師等  拯済無辺極濁悪  道俗時衆共同心  唯可信斯高僧説

教行信証(正信偈)

前回お話しした教行信証について補足します。
親鸞聖人の『教行信証』の中にある有名な偈文のに「正信偈」とわれるものがあります。
正信偈は、本願寺第8世蓮如上人によって朝夕のお勤めとして、拝読するようになり、浄土真宗では現在もそのお勤めは続いています。
では、『教行信証』に所収の偈文である正信偈を紹介します。
帰命無量寿如来  南無不可思議光  法蔵菩薩囚位時  在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因  国土人天之善悪  建立無上殊勝願  超発希有大弘誓
五劫思惟之摂受  重誓名声聞十方  普放無量無辺光  無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光  不断難思無称光  超日月光照塵刹  一切群生蒙光照
本願名号正定業  至心信楽願為因  成等覚証大涅槃  必至滅度願成就
如来所以興出世  唯説弥陀本願海  五濁悪事群生海  応信如来如実言
能発一念喜愛心  不断煩悩得涅槃  凡聖逆謗斉廻入  如衆水入海一味
摂取心光常照護  巳能雖破無明闇  貧愛瞋憎之雲霧  常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧  雲霧之下明無闇  獲信見敬大慶喜  即横超截五悪趣
一切善悪凡夫人  問信如来弘誓願  仏言広大勝解者  是人名分陀利華
弥陀仏本願念仏  邪見慢悪衆生  信楽受持甚以難  難中之難無過斯
印度西天之論家  中夏日域之高僧  顕大聖興世正意  明如来本誓応機
長くなるので、『教行信証』に所収の偈文である正信偈は次回へ続きます。

教行信証(人生は苦の連続)

生死輪転の家に元来することは
決するに、疑情をもって所止となす
(『教行信証』)
「なぜ生きる」という本には、次のような現代語訳になっています。
「安心、満足というゴールのない円周を、限りなくまわって苦しんでいるさまを、『生死輪転』とも『流転輪廻』言われる。
家を離れて生きられないように、離れきれない苦しみを『家』にたとえられている。
『人生の終わりなき苦しみ』のことである」
人間にとって最も残酷ない刑罰は終わりのない無益で無意味な労働ではないでしょうか。
たとえば、大きな土の山を「イ」から「ロ」の場所へ移すとしましょう。
何度何度も何百回も、何千回も一輪車で土を「イ」から「ロ」へ運び、やっと運び終わったとき、こんどは大きな土の山を「ロ」から「イ」の場所へ移へ移動せよと命ぜられる。
それが終わると今度は「イ」から「ロ」の場所へ移す・・・・・。
意味のない労働、終わりの見えない仕事。
こんなことを続ければ、労働者は4~5日もすれば首をくくってしまうか、狂乱して頭を石か何かにぶつけて死んでしまうのではないでしょうか。
しかし、人生もまた似たようなものかもしれません。
人生苦労一つもせずに終わっていく人など一人もいないのです。
病気、身内の死、家庭や職場での人間関係、老後の不安などなどひとつ苦しみを乗り越えても、そこにはまた新たな苦しみが待っています。
それでも人は新たな人生の苦を乗り越えながら生きて行っているのです。
この苦しみの連続の人生を親鸞聖人は教行信証で「生死輪転の家に還来する」と言われているのではないでしょうか。

教行信証・総序(難度海)

教行信証の総序に出てくる「難度海」という言葉について、少し書いてみたいと思います。
難度海とは、渡り難い海、ということで、人生を海にたとえたものです。
海には、波がつぎつぎと打ち寄せてくるように、人生にも荒波のように問題、トラブルなどなどがつきものです。
そんな人生苦海の波間から、 しきりに、 こんな嘆きが聞こえてきます。
「金さえあれば」 「物さえあれば」 「有名になれたら」 「地位が得られれば」 「家を持てたら」 「恋人が欲しい」 などなど。
苦しみの原因をそこらに見定めて、 「これらの幸せさえ手に入れれば幸福になれる」
と思っているのでしょうね。
ふつう誰しも考えることです。
でも、よくよく考えてみると、それらは、海のたとえでいうならば、ちょうど近くに浮いている丸太や板切れのようなものかもしれません。
考えさせる小話をひとつ、 紹介しましょう。
所はある南の国。 登場人物はアメリカ人と現地人。
ヤシの木の下で、 いつも昼寝をしている男をつかまえてアメリカ人が説教しています。
「怠けていずに、 働いて金を儲けたらどうだ」
ジロリと見あげて、 男が言う。
「金を儲けて、 どうするのだ」
「銀行にあずけておけば、 大きな金になる」
「大きな金ができたら、 どうする」
「りっぱな家を建て、 もっと金ができれば、 暖かい所に別荘でも持つか」
「別荘を持って、 どうするのだ」
「別荘の庭のヤシの下で、 昼寝でもするよ」
「オレはもう前から、 ヤシの下で昼寝をしているさ」
ぐるぐるの堂々巡りですね、思っていた本当の幸福はどこにあるのでしょう?
教行信証には、まず難度海である人生の実相を真正面から見据え、難度海を明るく楽しく渡す道を教えているのですね。
俳優の三國連太郎さん次のように語っています。
私が一番感動するのは、『教行信証』の冒頭の言葉です。
親鸞の すべてが、冒頭の十行か二十行に尽くされているような気がするんです。
教行信証は、多くの著名人にも多大な影響を与えているのです。

教行信証・総序(人生の目的)

親鸞聖人、畢生の大著が『教行信証』全六巻から構成されています。
そのなかでも総序に特に感動しましたので、まず総序の内容から紹介していこうと思います。
『教行信証』総序にはまず最初にこう書かれています。
難思の弘誓は、 難度海を度する大船、 無碍の光明は、 無明の闇を破する慧
日なり (『教行信証』)
「なぜ生きる」という本には、次のような現代語訳になっています。
「弥陀の誓願は、 私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、 苦しみの波の絶えない人生の海を、 明るく楽しくわたす大船である。
この船に乗ることこそが人生の目的だ」
親鸞聖人は、 人生を海にたとえて、 苦しみの波の絶えない 「難度海」 とか 「苦海」 と言われています。
実際のところどうでしょうか?
歴史上の人物を調べてみました。
天下統一を成し遂げ、征夷大将軍にもなった徳川家康
「重荷を負うて、 遠き道を行くがごとし」
( 死ぬまで、苦悩という重荷はおろせなかった)
詩人、劇作家、小説家、哲学者、自然科学者、政治家、法律家と幅広い分野で
活躍し、小説『若きウェルテルの悩み』、詩劇『ファウスト』を残したドイツの文豪、
ゲーテ
「結局、 私の生活は苦痛と重荷にすぎなかったし、
七十五年の全生涯において、 真に幸福であったのは四週間とはなかった」
『放浪記』(ほうろうき)は、作家の林芙美子が自らの日記をもとに放浪生活の体験を書き綴った自伝的小説。
「でんぐり返り」がある森光子の舞台作品としても有名になった「放浪記」を書いた林芙美子
「花のいのちはみじかくて、 苦しきことのみ多かりき」
夏目漱石
「人間は生きて苦しむ為めの動物かも知れない」 (妻への手紙)
芥川龍之介
「人生は地獄よりも地獄的である」 (『侏儒の言葉』)。
「人生は苦なり」 の、 二千六百年前の釈迦の金言の通りのようです。
まさに人生は渡りにくい海のごとし、です。
ですが私たちは決して、 苦しむために生まれてきたのではありません。
生きているわけでもありません。
すべての人間の究極の願いは、 苦悩をなくして、
いかに明るく楽しく難度海の人生をわたるか、 に尽きるでしょう。
これこそが人類最大の課題であり、 その解答が 『教行信証』 に書かれているのです。

教行信証「総序」

教行信証の「総序」の全文を紹介します。
ひそかにかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
しかればすなわち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。
浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。
これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萠を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す。
かるがゆえに知りぬ。円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。
しかれば、凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。
穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの、特に如来の発遣を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。
ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。
聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。
真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知りぬ。
ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。
以上が教行信証の「総序」の全文になります。
次回から教行信証の「総序」の解説をしていこうかと思っております。